デヴィ夫人の両親と壮絶な生い立ち|極貧と弟の悲劇を越えた波乱の真相

目次
デヴィ夫人の両親と壮絶な生い立ち|極貧と弟の悲劇を越えた波乱の真相
デヴィ夫人の両親と壮絶な生い立ち|極貧と弟の悲劇を越えた波乱の真相
@ creator • Click to Play Video Inline
🎵 デヴィ夫人の両親と壮絶な生い立ち|極貧と弟の悲劇を越えた波乱の真相

世界のVIPが一堂に会する国際社交界で「東洋の真珠」と称えられ、80代半ばを迎えた現在も圧倒的なバイタリティで芸能界の第一線を走り続けるデヴィ夫人。その優雅な立ち振る舞いや豪華絢爛なライフスタイルから、生まれながらの大富豪や由緒正しき名家の令嬢と信じ込んでいる人は少なくありません。

しかし、その華やかなヴェールの奥に刻まれているのは、戦中・戦後の東京・麻布で味わった骨身に染みる極貧生活と、大工だった父親の死、病弱な母親の介護、そして溺愛した愛弟の自死という、あまりに過酷な家族の歴史です。本名・根本七保子(ねもと なほこ)が、いかにして運命の濁流を生き抜き、インドネシア大統領夫人へと駆け上がったのか。知られざる両親の正体と、血塗られた家族史の全貌を紐解きます。

📌 【この記事の重要ポイントまとめ】
  • 要点1:父親の根本兵七郎は大工の棟梁で教養人だったが、病に倒れ夫人が16歳の時に他界した。
  • 要点2:母親の根本政子は足が不自由で病弱であり、夫人は一家を養うため昼夜を問わず働き続けた。
  • 要点3:最愛の弟・八曾男のガス自死と直後の母の病死という最大の悲劇が、夫人の不屈の精神を形成した。

【家族構成】デヴィ夫人(根本七保子)を育んだ麻布の職人家系

デヴィ 夫人 両親の関連写真・ビジュアル
【画像】デヴィ 夫人 両親 関連ショット

デヴィ夫人のルーツを辿ると、東京都港区西麻布(旧:東京府東京市麻布区霞町)の質素な庶民長屋に行き着きます。昭和15年(1940年)2月6日、根本家の長女として生を受けた彼女の本名は根本七保子。家族構成は、大工の棟梁だった父・兵七郎、母・政子、そして2歳年下の弟・八曾男を加えた4人家族でした。

当時の麻布は、現在の高級住宅街のイメージとは大きく異なり、下町の風情が色濃く残る住宅密集地でした。第二次世界大戦の空襲によって家を焼かれ、戦後の混乱期には日々の配給すらままならない困窮状態に陥ります。幼少期のデヴィ夫人は、防空壕の中で空腹と戦いながら、家族の命を守ることの厳しさを肌で感じ取っていました。

家庭内は常に経済的な不安が渦巻いていましたが、デヴィ夫人の類まれな美貌と知性は幼い頃から際立っていました。しかし、その才能を開花させるための教育環境は整っておらず、家族の困窮が彼女の肩に重くのしかかることになります。

【父親の素顔】大工の棟梁・根本兵七郎の生涯と早すぎる別れ

デヴィ 夫人 両親の様子・注目ショット
【写真】デヴィ 夫人 両親 近影・注目カット

デヴィ夫人の父親である根本兵七郎は、腕利きの大工の棟梁でした。単なる職人にとどまらず、読書家で古典や歴史に通じ、当時としては非常に高い教養と誇りを持った人物だったと伝えられています。夫人が見せる確固たる自己主張や、不正を許さない気骨ある性格は、間違いなくこの父から受け継いだ資質です。

ところが兵七郎は、職人気質ゆえに妥協を許さず、商売上手とは言えない不器用な一面がありました。大工仕事で生計を立てていたものの、戦後の混乱と自身の健康悪化が重なり、家計は常に火の車でした。酒を愛する情熱家でもありましたが、無理が祟って体を壊し、夫人がまだ10代半ばという多感な時期に病床に伏してしまいます。

夫人が都立三田高校定時制へ進学した直後、兵七郎は病気により息を引き取りました。夫人が16歳の時です。大黒柱を失った根本家には、借金と病弱な妻、そして幼い弟だけが取り残されました。この父親の早すぎる死こそが、少女・七保子に「自分がこの家族を養わなければならない」という強烈な自覚と覚悟を植え付ける決定打となりました。

【病弱だった母】根本政子さんへの献身と極貧生活を支えた覚悟

デヴィ 夫人 両親の報道・詳細資料
【資料】デヴィ 夫人 両親 報道・メディア記録

父の死後、家庭の重圧を背負ったデヴィ夫人が何よりも心を痛めていたのが、母・根本政子の存在でした。福島県出身の政子は、生まれつきあるいは幼少期の病によって足が不自由(小児麻痺)であり、激しい労働に耐えられる健康状態ではありませんでした。

内職でわずかな小銭を稼ぐのが精一杯だった母を前に、高校生だった七保子は過酷な二重生活に身を投じます。昼間は千代田生命保険(現・ジブラルタ生命)に勤務しながら定時制高校へ通い、夜は英語を学ぶ傍ら、家計と母の薬代を稼ぐために銀座の名門クラブ「コパカバーナ」などの高級店で働き始めました。

「母においしいものを食べさせたい」「弟に十分な教育を受けさせたい」という一心で働いた夫人は、銀座の夜の世界でも決して媚びることなく、知性と品格を武器に頭角を現します。足の不自由な母をいたわる気持ちが、彼女の驚異的な忍耐力と野心の原動力となっていたのです。

【弟・八曾男の悲劇】最愛の肉親が選んだ自死の理由と夫人の慟哭

デヴィ夫人の波乱万丈な生涯において、もっとも深く、今なお癒えることのない最大の傷跡が、最愛の弟・根本八曾男(やそお)の死です。聡明で心優しい弟の将来を案じた夫人は、自らの稼ぎで彼を学費の工面から何から支援し、難関である早稲田大学文学部仏文科へと進学させました。

しかし、姉がスカルノ大統領に見初められ、インドネシアへ渡ったことが思わぬ悲劇の引き金を引きます。昭和30年代後半の日本メディアは、大統領の側室となった七保子に対し、「東洋の愛人」「売春」「ハニートラップ」といった容赦のないバッシング報道を浴びせかけました。真面目で内向的な性格だった八曾男は、大学構内や世間からの冷酷な好奇の目に晒され、激しく精神を摩耗させていきます。

さらに悲劇を決定づけたのは、姉の立場を利用しようと近づいてきた悪質な詐欺師による金銭トラブルでした。「姉の力になりたい」と願った八曾男はその甘言に騙され、多額の借金を背負わされることになります。姉に迷惑をかけてしまったという激しい自責の念、そして世間の嘲笑に耐えかねた八曾男は、昭和37年(1962年)4月、都内のアパートでガス自死を遂げました。20代前半という若さでした。

悲報はジャカルタの夫人のもとへ届けられましたが、彼女を襲った地獄はそれだけにとどまりませんでした。最愛の息子を失ったショックから、すでに病床にあった母・政子も心臓発作(急性肺炎・衰弱)を起こし、弟の死からわずか2日後に息を引き取ったのです。異国の地で人生の頂点に登りつめようとした瞬間、夫人は血を分けた家族を同時に失うという、言語を絶する業火に焼かれました。

【社交界の裏側】銀座の夜からスカルノ大統領の妻へ昇りつめた来歴

家族の悲劇と隣り合わせで進んでいたのが、少女・七保子から「ラトナ・サリ・デヴィ・スカルノ」への驚異的な転身劇でした。1959年、来日中だったインドネシアの初代大統領スカルノと帝国ホテルのバーで運命的な邂逅を果たした彼女は、その圧倒的な美貌と知的で誇り高い会話力によって大統領の心を奪います。

同年にインドネシアへと招かれた彼女は、1962年に正式に婚姻を結び、スカルノ大統領の第3夫人となりました。「ラトナ・サリ・デヴィ」とはサンスクリット語で「宝石の聖なる女神」を意味します。長屋住まいの大工の娘が、わずか数年で国家元首の妻となり、国際政治と外交の表舞台へと躍り出たのです。

しかし、母と愛弟を失った直後のデヴィ夫人は、悲嘆に暮れる暇さえ与えられませんでした。大統領夫人としての公務、後宮での権力闘争、そして1965年に勃発した軍事クーデター「9・30事件」によるスカルノ大統領の失脚と幽閉。夫人は愛娘・カリナを出産後、亡命同然の身でパリへと逃れ、国際社交界のトップレディとして生き残りをかけた激しい闘争へ身を投じていきました。

【家系図の真相】「元華族」の噂は嘘?ゼロから財を成した波乱万丈の原点

デヴィ夫人に対しては、その気品ある佇まいや完璧なマナーから「実は旧華族や旧財閥の隠し子なのではないか」「由緒ある名家の家系図を持っているはずだ」といった都市伝説が長年囁かれてきました。しかし、結論から言えばそれらの噂はすべて事実無根です。

根本家の家系図に皇族や華族の血筋は一切なく、彼女のルーツは紛れもなく東京麻布の質素な庶民・大工の家系です。デヴィ夫人自身も自叙伝やテレビ番組で自身の生い立ちを隠すことなく堂々と明かしており、むしろ何の後ろ盾もない極貧の環境から、自らの美貌と知性、そして不屈の意志だけで這い上がった自負を隠しません。

「私は恵まれた環境で育ったお嬢様ではありません。食べるものにも事欠いた過去があるからこそ、何があってもへこたれない強い心が育まれたのです」。夫人が放つこの言葉通り、作られた血統ではなく、過酷な現実をサバイブした生々しい経験こそが、現在の彼女の絶対的な自信と圧倒的な存在感の源泉となっています。

【デヴィ夫人の両親】に関するよくある質問(FAQ)

Q1:デヴィ夫人の本名と父親・母親のお名前は?
デヴィ夫人の日本名は根本七保子(ねもと なほこ)です。父親は根本兵七郎(ひょうしちろう)さん、母親は根本政子(まさこ)さんといいます。

Q2:父親の職業は大工だったというのは本当ですか?
事実です。父親の兵七郎さんは麻布で大工の棟梁を務めていました。非常に読書家で教養にあふれた人物でしたが、体が弱く、夫人が都立三田高校定時制に進学した16歳の頃に亡くなっています。

Q3:弟の八曾男(やそお)さんが亡くなった理由はなんですか?
姉であるデヴィ夫人がスカルノ大統領の妻となったことで生じたマスコミの激しい中傷バッシングや、姉を利用しようとする詐欺師の金銭トラブルに巻き込まれたことが原因です。苦悩の末、1962年4月に下宿先でガス自死を選びました。

Q4:デヴィ夫人の実家はお金持ちだったのですか?
いいえ、まったくの逆で極貧でした。戦中・戦後の混乱で家を失い、病弱な両親と弟を支えるため、夫人は昼は保険会社、夜は銀座の高級クラブで働き、家計を支える大黒柱となっていました。

まとめ:過酷な原点こそがデヴィ夫人の気高さと不屈の精神をつくった

テレビ番組で見せる歯に衣着せぬ辛口コメントや、過酷なロケにも果敢に挑戦するデヴィ夫人の姿には、単なるタレントの枠を超えた凄みが漂っています。その芯の強さの根底には、大工の父から受け継いだ気骨、病弱な母を背負って生き抜いた覚悟、そして愛する弟を理不尽な死で奪われた消えない痛恨がありました。

極貧の麻布から世界の社交界へ、そして国家の崩壊をくぐり抜けて現代の日本で輝き続けるその歩みは、運命に抗い続けた一人の女性の闘争史そのものです。華麗な大統領夫人の称号以上に、過酷な原点に決して屈しなかった根本七保子としての生き様こそが、時代を超えて人々を惹きつけてやまない真の魅力といえます。 (出典: デヴィ 夫人 両親(Yahoo!ニュース))